大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和62年(ワ)11451号 判決

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

【事 実】

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金四〇九七万六六九〇円及びこれに対する昭和五八年一一月一日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  診療経過

(一) 診療契約に至る経過

原告は、昭和五八年四月一六日、静岡県富士宮市所在の小長井歯科医院において、右側下顎第一大臼歯(以下「右下六番」という。)を抜歯し、同月一八日、同医院において「右下六番急性化膿性歯牙支持組織炎」と診断された。次いで同月二二日、長野県飯田市所在の西尾歯科において、「抜歯窩治癒不全」と診断され、同月二八日まで、同歯科及び右小長井歯科医院において受診した。しかるに抜歯部の痛み等が続いたため、同月三〇日、被告の開設した静岡済生会病院(以下「被告病院」という。)口腔外科を訪れ、被告との間で、右抜歯部の異状の診断及び治療を目的とする診療契約を締結した。

(二) 被告病院における診療経過

原告は、被告病院口腔外科の担当歯科医師から、右初診日に「抜歯後感染」と診断され、次いで昭和五八年五月四日に右下六番の再掻爬を受け、更に同月一〇日、右同所の再々掻爬を受けるとともに、「抜歯窩治癒不全」と診断され、その後同年一〇月三一日まで継続的に被告病院において診療を受けた。この間、同年六月二九日から同年七月六日までと同月一一日から同月三〇日までの間は被告病院口腔外科に入院して診療を受けた。

2  診療債務の不完全性

右診療契約に基づく被告病院の診療行為には、次のような過誤があつたため、原告は根治し難い下顎骨慢性骨髄炎に罹患した。

(一) 下顎骨慢性骨髄炎の発生機序

下顎骨骨髄炎は、外傷、細菌感染、化学的刺激等を原因とするもので、解剖学的理由から、次のとおり、定型的な急性骨髄炎を発症したうえ、これが慢性に経過して慢性骨髄炎に転化することがあり(後記(二)の二次性慢性骨髄炎)、また、全身抵抗の減弱に伴ない、先行する骨病変に弱毒菌が感染して初めから慢性骨髄炎が発症することもある(後記(三)の原発性慢性骨髄炎)。

(二) 急性骨髄炎診療上の過誤

(1) 急性骨髄炎の定型的症状

〈1〉 第一期(初期)

全身的には三八度内外の発熱とともに、倦怠、不眠、頭痛、食欲不振などの熱症候が現れる。歯肉、外頬部などの腫脹、発赤は顕著でないが、原因歯を含む数歯に著明な自発痛と打診痛が認められる。

〈2〉 第二期(進行期)

三九度内外の弛張熱型の発熱で悪感戦慄を伴い、倦怠、不眠、頭痛、食欲不振、憔悴など著明な熱症候を呈し、脈拍は微弱となる。局所の拍動性激痛は増大し、原因歯から近心側の数歯は、高度の動揺と強度の打診痛を示す(弓倉症状)。血液像は著明に変化し、白血球数の増加、核の左方偏位をきたし、赤沈値も亢進する。下唇の知覚鈍麻・麻痺(ワンサン症状)に陥る。咀嚼障害、開口障害が発生する。

〈3〉 第三期(腐骨形成期)

熱症候は次第に緩解、全身的苦痛も幾分軽減し、自発痛も緩和し、炎症は亜急性をとるようになる。

〈4〉 第四期(腐骨分離期)

炎症は慢性化して体温もほぼ正常に復し、自発痛や圧痛などの自覚症状はほとんど消失する。腐骨が分離すると、X線像で透過性を減じた腐骨周囲に一層の透過像を認めるようになる。

(2) 抗生物質の投与による症状の変化

右定型的な急性骨髄炎の症状の経過中に抗生物質の投与による消炎治療が開始されると、右病変の進行状態に変化が起こり、さらに生体反応が加わつて複雑な症状を呈し、右定型的な急性骨髄炎の症状が現出しないことがある。

(3) 急性下顎骨骨髄炎の治療方法

治療は抗生物質、消炎剤の投与を行い、膿瘍形成のある場合には切開、排膿をはかると同時に、全身の安静と栄養など全身管理に充分気をつける。慢性化すると根治は期待できないので、急性発症の段階で、起炎菌が判明している場合には感受性の高い抗生物質を投与し、起炎菌が判明していない場合には、起炎菌の解明に務めると同時に、スペクトルが広く、かつ統計的に耐性獲得菌の少ない抗生物質を投与する。

(4) 被告病院による診療上の具体的過誤

〈1〉 急性骨髄炎の定型的症状の看過

被告病院口腔外科受診時において、原告は抜歯をした後であり、発熱、嘔吐などの熱症候、右下六番の原因菌を含む数歯の疼痛、打診痛、右原因歯付近の腫脹、歯肉発赤などの各症状があつて、明らかに急性骨髄炎の第一期(初期)ないし第二期(進行期)の症状を呈していたのであるから、その診療にあたつた被告病院の担当歯科医師としては急性骨髄炎である旨の診断をなすべきであつたのにこれを看過し、診断を誤つた。

〈2〉 急性骨髄炎の定型的症状が現出していない場合の検査不足

仮に、原告が急性骨髄炎の定型的症状を呈していなかつたとしても、これは原告が急性骨髄炎に罹患しているにもかかわらず、抗生物質の投与により右定型的症状が現出しなかつたものである。そして原告の抜歯後の経過及び症状を前提に診療にあたつた被告病院の担当歯科医師としては、右のような現象が生じている可能性もあることを想定して、急性骨髄炎罹患の有無を確認するため、骨シンチグラム検査、試験切除による病理組織学検査を行い、初診時にも血液検査を行い、早期にパントモグラフィー検査を行うべきであり、右検査を尽くせば被告病院受診中に急性骨髄炎に罹患していたことを判明しえたのに、これらの検査を怠つて、急性骨髄炎の罹患に気付かず、診断を誤つた。

(5) 慢性骨髄炎への転化

被告病院担当歯科医師は、右のとおり急性骨髄炎の定型的症状を看過し、または、定型的症状の不現出を想定した検査を十分行わなかつたことにより急性骨髄炎への罹患に気付かず、右罹患を前提とした抗生物質の適切な投与を行わなかつたため、急性骨髄炎が二次性慢性骨髄炎に転化した。すなわち、被告病院の担当歯科医師が行つた抗生物質の投与は、個々の処置行為の感染防止のためであることから、投与期間が短く、また、感受性の高い抗生物質を使つておらず、従つて、急性骨髄炎を治療し、慢性骨髄炎への転化を防止するには不十分であつた。

(三) 歯槽骨炎(ドライソケット)診療上の過誤

仮に急性骨髄炎から慢性骨髄炎への転化が認められないとしても、原告は、被告病院における歯槽骨炎(ドライソケット)の治療が不完全であることにより、原発性慢性骨髄炎に罹患したものである。すなわち、

原告は、被告病院受診当時、右下六番の抜歯部位がドライソケットの状態にあり、この骨病変に弱毒菌が感染して慢性骨髄炎を発症したものであるところ、原告の診療にあたつた被告病院の担当歯科医師としては、原告が右ドライソケットの状態にあつたことを当然知り、または、知り得べきことであり、その場合弱毒菌感染による慢性骨髄炎の発症も当然予想されるのであるから、抜歯窩の治療として、抗生物質を大量投与し、慢性骨髄炎が発症することのないよう、適切に治療すべきであつたのにこれを怠つた。

3  損害及び因果関係

原告は、右のとおり被告病院の診療行為が不完全であつたため、不顎骨慢性骨髄炎に罹患し、現在に至るまで慢性的な発熱(三七度ないし三八度)、右下顎痛、知覚麻痺、開口障害、咀嚼障害、著しい皮下出血等の症状が継続しており、現在の医学においては治癒の可能性がない。そのため、在学していた飯田女子短期大学家政学科を中退せざるを得ず、また、別紙のとおり、多数の病院を受診せざるを得なくなり、多大の苦痛を被つたばかりでなく、労働能力も低下し、次のとおり、損害を被つた。

(一) 積極損害

(1) 治療費 二三九万五一六〇円

別紙のとおり

(2) 入院雑費 三七万八〇〇〇円

一日当たり一二〇〇円

入院期間 三一五日

(3) 通院交通費 一一二万三五三〇円

別紙のとおり

(二) 逸失利益 二五二八万円

年間収入額を、昭和六〇年賃金センサス女子労働者学歴計高専、短大卒における年収額(一八九万四八〇〇円)とし、労働能力喪失率を五六パーセントとし、四七年間就労可能としたうえ、新ホフマン係数によりこの間の中間利息を控除した。

(三) 慰謝料 一〇〇〇万円

原告の右苦痛を慰謝するには右金員が相当である。

(四) 弁護士費用 一八〇万円

4  よつて、原告は、被告に対し、診療契約の債務不履行または不法行為による損害賠償請求権に基づき、損害金合計四〇九七万六六九〇円及びこれに対する履行期後の日である昭和五八年一一月一日から支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1(一)  請求原因1の(一)の事実のうち、被告が被告病院を開設したこと、原告が被告病院を受診し、診療契約を締結したことは認め、その余は知らない。

(二)  同1の(二)の事実は認める。

2(一)  同2の冒頭部分の事実は否認する。

(二)  同2の(一)の事実は認める。

(三)(1) 同2の(二)の(1)ないし(3)の事実は認める。

(2) 同2の(二)の(4)の〈1〉及び〈2〉の事実のうち、原告が被告病院受診時において抜歯をした後であつたことは認め、その余は否認する。原告が急性骨髄炎に罹患したことはない。

(3) 同2の(二)の(5)の事実は否認する。

(四)  同2の(三)の事実のうち、原告がドライソケットであつたことは知らず、その余は否認する。ドライソケットとは抜歯後治癒不全の一つであり、抜歯後治癒不全については、被告病院は適切な治療を尽くしている。

3  同3の事実のうち、原告が飯田女子短期大学家政学科に在学していたことは認め、その余は否認する。

第三  証拠《略》

【理 由】

一  診療経過について

1  診療契約に至る経過(請求原因1の(一)の事実)について

当事者間に争いのない事実に、《証拠略》を総合すると、原告は、昭和五八年三月一一日、住所地である静岡県富士宮市所在の小長井歯科医院を受診し、左下五番及び同七番の歯の治療を受けていたところ、同月二六日、冠をかぶせていた右下六番の歯の疼痛を訴えてその治療も受け、一時、同年四月七日に、入学先短大の所在地である長野県飯田市所在の西尾歯科で治療を受けた後、同月一六日、再び小長井歯科医院の診察を受け、右下六番については保存治療不可能との診断を受けて抜歯され、同月一八日まで同医院での治療を受けた。しかし、その後抜歯部位付近の痛みと顔の腫れが出てきたため、同月二二日、西尾歯科を受診したところ、「抜歯窩治癒不全」との診断で、抜歯部位がドライソケットの状態であつたため、抜歯窩再掻爬を受け、同月二七日まで同歯科で治療を受けたが(同月二八日には小長井歯科医院で治療を受けた。)、西尾歯科において、さらに専門的な口腔外科の受診を勧められたことから自ら口腔外科を探したすえ、同月三〇日、被告の開設する被告病院口腔外科を訪れ、被告との間で、右抜歯部の異状の診断及び治療を目的とする診療契約を締結したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  被告病院における診療(請求原因1の(二)の事実)について

被告病院口腔外科の担当歯科医師は、昭和五八年四月三〇日、「抜歯後感染」との初診のもと原告への治療を開始し、同年五月四日に右下六番の再掻爬を、次いで同月一〇日にも同所の再々掻爬を実施するとともに、「抜歯窩治癒不全」と診断して、同年一〇月三一日まで治療を行い、その間、同年六月二九日から同年七月六日までと同月一一日から同月三〇日までの二回にわたり右口腔外科において入院治療を行つたことについてはいずれも当事者間に争いがない。

なお、《証拠略》によると、原告は、被告病院の口腔外科には二度目の入退院後は八月三日と九月五日に外来受診したほか、九月三〇日から一〇月二一日までは右病院の血液内科に入院したこともあつて、一〇月三一日に外来受診したのみであることが認められる。

3  被告病院終診後の経過

《証拠略》によると、原告は、被告病院終診後も微熱と右下顎の鈍痛があつたため、同年一一月一一日、藤枝市立志太総合病院(以下「志太総合病院」という。)を受診し、抜歯部のレントゲン写真(パントモグラフィー)上、右下顎骨に腐骨分離像らしき異常な透過像が認められて「慢性骨髄炎」の疑いがあると診断され、同年一二月八日同病院に入院したうえ、同月一二日、腐骨除去手術を受けた結果、腐骨分離は存しなかつたが、皮質骨から骨髄に至るまで深さ約一センチメートルにわたつて灰白色に変色した異常に硬い部分が存したため、これを除去し、同病院では右手術結果もふまえて「右側下顎骨慢性硬化性骨髄炎」と診断したこと、しかし、右手術により一時、疼痛及び微熱が消失したものの、昭和五九年二月上旬ごろから再び疼痛及び微熱が発生したため、原告は志太総合病院の紹介で東京医科歯科大学第一口腔外科を受診して「慢性骨髄炎」と診断され、その後、昭和六〇年一〇月二九日から山梨県立中央病院を受診して、「右側下顎骨骨髄炎」と診断され、昭和六一年二月二四日から労働福祉事業団浜松労災病院口腔外科を受診して「右下顎骨慢性骨髄炎術後」と診断され、同年三月二七日には同病院において右下顎骨部分切除手術を受け、さらに、昭和六二年四月三〇日からは大阪歯科大学付属病院を受診して「右側慢性下顎骨骨髄炎」と診断されるなど、別表記載のとおり各病院を受診し、現在は従前からの右下顎痛及び微熱のほかに、知覚麻痺と咀嚼障害等の治療のため主として静岡市立病院に通院していることが認められ、右事実によれば、原告は志太総合病院において硬化骨除手術を受けた時点で「下顎骨慢性硬化性骨髄炎」に罹患していたというべきであり、《証拠略》中右認定に反する部分は前掲証拠に照らしたやすく措信することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

二  急性骨髄炎診療上の過誤(請求原因2の(二)の事実)について

1  原告の右主張は、原告が被告病院受診当時、慢性骨髄炎に転化する前段階としての急性骨髄炎に罹患していたことを前提とするので、まずこの点について検討する。

(一) 急性骨髄炎の定型的症状の存否

請求原因2の(二)の(1)の事実(急性骨髄炎の定型的症状)については当事者間に争いがなく、《証拠略》を総合すると、原告には、昭和五八年五月中旬ころから高くても三八度程度の微熱が存し、抜歯部位の右下六番に自発痛が、その両側の右下五番と同七番に打診痛が存したこと及び右部位付近に軽度の歯肉発赤、腫脹が存したことが認められる一方、右下六番から前方の数歯にわたつての高度の動揺は勿論、強度の打診痛もなくいわゆる弓倉症状が存しなかつたばかりでなく、いわゆるワンサン症状もなく、咀嚼障害等も発生しなかつたこと、自発痛及び打診痛が存するといつても激痛の程度には至つていなかつたこと、被告病院での検温の結果、三九度を超える高熱は発生していなかつたこと(《証拠略》中には自宅において検温した際に三九度を超える発熱があつた旨の供述が存するが、右供述は被告病院における検温結果に照らしてたやすく措信することができないばかりでなく、前掲証拠に照らすと、仮に右発熱があつたとしてもこれをもつて急性骨髄炎の定型的症状としての三九度を超える高熱があつたと認めるには不十分である。)、発熱の状態も被告病院受診中、抗生物質の投与の前後を通じ、特に変化は見られなかつたこと、被告病院が実施した血液一般(七回)、C反応性蛋白(八回)、尿一般(五月一〇日)、血液像(五回)、歯科レントゲン(パントモグラフィー一回を含む二回)の各検査においても、急性骨髄炎を窺わせる結果は全く出ていないこと、原告は被告病院受診中に少なくとも六回過換気症候を起こすなど精神的に不安定な面を有しており、原告の訴える抜歯部の疼痛に関しても、偽薬として用いた乳糖ないし仮性三叉神経痛の治癒のために用いたテグレトールの投与により右疼痛が軽減するなど、炎症以外に心因的要素が作用している疑いがあること及び被告病院受診中にその紹介により受診した浜松医科大学医学部附属病院歯科口腔外科による二度の診断においても、下顎骨骨髄炎の罹患を示唆する診断はなかつたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右事実に照らせば、被告病院受診当時の原告には、急性骨髄炎の第一期の定型的症状である微熱、自発痛及び打診痛等に符合する症状が存したものの、第二期以降の定型的症状は存せず、疼痛に関しては原告の心因的要素も作用している疑いがあるうえ、急性骨髄炎を窺わせる検査結果も全く存しなかつたのであるから、発現した症状ないし検査結果の面から急性骨髄炎への罹患を認めることはできない。

(二) 慢性骨髄炎への罹患からの推認

原告が、志太総合病院において、硬化骨除去手術を受けた時点で下顎骨慢性硬化性骨髄炎に罹患していたことは前記認定のとおりであり、慢性骨髄炎が急性骨髄炎から転化して生ずることがあることは当事者間に争いがないから、慢性骨髄炎への右罹患の事実から被告病院受診当時の急性骨髄炎罹患の事実を推認しうるかについて検討するに、《証拠略》を総合すると、慢性骨髄炎には、急性骨髄炎から転化する二次性のもののほかに、当初から慢性症状の現出する原発性のものが存すること(この点は当事者間に争いがない。)、しかも慢性硬化性骨髄炎の場合、その成因、本態等は不明な点が多く発生機序が明確ではないこと及び志太総合病院の検査及び手術の結果によつても原告がいつの時点で慢性骨髄炎に罹患したかを特定できないことが認められるところ、右事実に照らせば、右慢性硬化性骨髄炎に罹患したことから必ずしも被告病院診療中に急性骨髄炎に罹患していたとは推認しえない。

(三) その他、原告の急性骨髄炎への罹患を認めるに足りる的確な証拠は存しない。

2  右によれば、原告が被告病院受診当時に急性骨髄炎に罹患していたことを前提としてその診断上の過誤があつたとする原告の主張はいずれも理由がない。

なお、抗生物質の投与により急性骨髄炎は複雑な症状を呈し、急性骨髄炎の定型的な症状ないし検査結果が現出しないことがあることについては当事者間に争いがなく、原告は被告病院において右現象が生じていることをも想定してさらに精密な検査をすべきであつた旨主張するが、原告が客観的に急性骨髄炎に罹患していたことを認めるに足りる証拠が存しない以上、右検査を実施すべきであつたか否かはともかく、右検査の実施により急性骨髄炎の罹患が判明し、慢性骨髄炎への転化を防止しえたとは証拠上認めることができないから、原告の右主張も理由がない。

三  歯槽骨炎(ドライソケット)診療上の過誤(請求原因2の(三)の事実)について

(一)  《証拠略》によれば、ドライソケットとは、歯槽骨の炎症の一種で、抜歯後の抜歯窩の治癒不全と疼痛とを症状とするものであり、右ドライソケットに対しては、抜歯窩の掻爬によつて壊死組織となつた抜歯窩壁の骨組織を削除し、新創面を作つて正常な血餅を形成する治療を施すとともに、抜歯窩内に抗生物質、鎮痛剤を投与すべきものとされていることが認められる。

(二)  当事者間に争いのない事実に、《証拠略》によると、原告のドライソケットの症状は被告病院の前医である西尾歯科の診療時に既に見られたもので、同歯科において掻爬及び抗生物質、鎮痛剤の投与が行われていたところ、これを踏まえて、被告病院の担当歯科医師は次のとおり治療をしたことが認められる。

(1) 昭和五八年四月三〇日(初診)抗生物質剤「セフロ」、鎮痛剤「ボルタレン」及び消炎酵素剤「ダーゼン」等各四日分投薬

(2) 同年五月四日 右下六番再掻爬を実施したうえ、右「セフロ」及「ボルタレン」のほか、消炎酵素剤「レフトーゼ」等各三日分投薬

(3) 同月六日、九日 各右下六番洗浄

(4) 同月一〇日 右下六番再々掻爬を実施したうえ、抗生物質剤「ヤマシリン」六カプセル投薬

(5) 同月一一日、一三日、一四日 各右下六番洗浄

(6) 同月一七日 右下六番等洗浄のうえ、右「セフロ」九カプセル及び「ダーゼン」等投薬

(7) 同月二〇日 右下六番洗浄

(8) 同月二五日、二六日、二八日 各静脈内点滴抗生剤「セフメタゾン」二グラム等投薬

(9) 同年七月一三日 抗生物質剤「ミノマイシン」一〇〇ミリグラム投薬

(10) 同月一五日から一七日まで 右「ミノマイシン」一〇〇ミリグラムを各一日二回宛投薬

(11) 同月一八日 右「ミノマイシン」一〇〇ミリグラム投薬

右認定の事実によると、被告病院の担当歯科医師は、原告に対し、右下六番の抜歯窩につき、昭和五八年五月四日に再掻爬を、同月一〇日に再々掻爬を、それぞれ実施するとともに、抜歯窩の治癒不全の治療として、右掻爬に加え、同年四月三〇日から同年七月一八日まで、適宜に洗浄並びに鎮痛剤、消炎剤及び抗生物質の各投与を行つていることが認められ、これらによれば被告病院口腔外科における抜歯窩への治療は一応相当なものであつたというべきであり、右治療経過に過誤があつたことを認めるに足りる証拠はない。

原告は、慢性骨髄炎の発症を防止するため抗生物質を大量に投与すべきであつた旨主張するが、被告病院における抗生物質の投与が不十分であつたことを認めるに足りる的確な証拠は存しないし、前記のとおり原告の慢性硬化性骨髄炎発症の原因及び経過は本件証拠上不明といわざるをえないから、被告病院が抗生物質の大量投与を行つておれば、右発症を防止し得たとも認めることはできない。

よつて、ドライソケット(歯槽骨炎)診療上の過誤に関する原告の主張も理由がない。

四  結論

以上の事実によれば、本訴請求はその余について判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき、民訴法八九条を適用して、主文のとおり、判決する。

(裁判長裁判官 北山元章 裁判官 田村幸一 裁判官 村野裕二)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例